前田と胡蝶蘭の出会いは約20年前のこと。種つけから商品化まで3〜4年もかかり、ちょっとした環境の変化で全滅しかねない胡蝶蘭。前田にとって、今までに育てたどんな花よりもか弱く、栽培するのが難しい。しかし、だからこそ前田は胡蝶蘭にのめり込んでいった。現在ほど冷房技術が高くなかった当時は、夏になると胡蝶蘭を標高千メートル以上の山にトラックで運んでいた。山道で強風に煽られ、危うく胡蝶蘭と心中しかけた昔話を懐かしそうに話す。
2002年、JOC設立メンバーとして入社した前田は温室の設計監修にも携わった。完全コンピュータ制御の温室で、昔のような心配が皆無になった今でもふと不安になることがある。怖いのは自然災害による停電などの、万一のトラブル。99.9%大丈夫だと言われても心配なのだからしょうがない。
胡蝶蘭はデリケート。水が多ければ根腐れ、日光を当て過ぎれば日焼けしてしまい、商品価値が無くなる。肥料のやり過ぎで花弁が奇形になることもある。湿度や風通しだって必要だ。仮に、真夏や真冬に空調が停まるようなことがあれば、およそ3万株、数千万円が一夜にして失われるだろう。前田は、水・光・風・養分・温度、胡蝶蘭に欠かせない5つのエレメントを、常にその季節、その品種に適した量を調整し与えてきた。
前田の栽培管理は職人気質。彼の手がける胡蝶蘭は、その花持ちの良さに定評がある。秘訣は根を傷つけないこと。そして、何より生育環境を完璧に管理すること。コンピュータ制御の水やり・温度管理・送風も、採光、遮光も、前田の長年の経験と勘には敵わない。通常、日焼けさせずに光合成させるためには、照度計の数値で管理する。だが、前田には必要ない。なぜなら、まるで自分自身が胡蝶蘭であるかのように、体に感覚が染み付いているから。株の体質や健康状態、風を送るファンの当たり具合で、場所により微妙に水の量を変えてやるなど、デジタルの世界では計り知れないきめ細やかな愛情が必要なのだ。
出荷する時は、箱入り娘を嫁に出す気分。嬉しくて、少し寂しい。自分が守ってあげないと生きられない、か弱い娘。育てるのが難しいからこそ面白く、苦労させられるからなおいっそう可愛い。これからも前田は、娘を立派に育て上げ、“花嫁の父”としての歓びと切なさを味わい続けていく。
